明けの神子               2008.06.08 text by カイ




 東の空に日が昇る。
 明けの神子と呼ばれる、人ならざるものが、人のような腕を伸ばし、塔の頂きで天を仰いだ。
 人ならざるもの。
 そう言い伝えられているが、見た限り人の姿と変わらない。
 肩まで真っ直ぐに流れる黒い髪。青い瞳。すっきりとした鼻筋にやや薄い唇。肌は白く、細く、陶器でできた人形のようにも見えるが、意志の強そうな瞳や背筋、大地を踏みしめるその足先には生気がみなぎり、紡ぐ言葉は神秘的な力と威厳を与えていた。
 彼は……いや、性別すら明かされていないから、彼女であるかも知れないが、人の耳にはよく聞き取れない呪文のような言葉を歌にして、天の高みを指差すように、更に腕を伸ばした。
 長い衣の裾が風にそよぐ。
 肩から胸下、肘上までが雪のように白く、袖と艶やかな御影石の床に広がる着物の裾は、明けの空と同じ朱色に染めあげられている。 神の言葉を聞き、人に伝える力を持った神子だけが身につける、高貴なる衣は、見る者の目を引き付けながら、側に寄せ付けない。
 何人にも冒すことのできない、神子。
 朝の日の光を受け、仄かに輝く、その姿。
 人はそれを畏怖し、敬い、そして高い塔の頂きに閉じ込めた。
 人と国の、まだ来ぬ未来を予言する神子は、この地に明けをもたらすものとして囲われているのだ。

 歌が、終わった。

 柔らかな風が流れ、肩までの髪をゆったりと揺らしながら神子が振り返る。青い瞳が光を透かした水の底の様に輝き、石の床に手をつく者たちを静かに見下ろした。
 予言が下されるのだ。
 その瞬間に固唾を呑んだ者達は、一瞬、我欲を忘れたように、神子のまなざしを見上げた。
「――次の新の月昇るまで」
 声は高くも無く低くも無く、ただ透き通る水のように響き渡った。
「風は歌い、地はぬくもりを忘れず、水は……生きとし生けるものを潤すだろう。……だが人の中に黒き炎が立ち上がり、黒き涙を生む。炎を見出した時、汝らは何を思い何を行うか……」
 見上げた数人が息を呑んだ。神子は続ける。
「黒き炎……天を焦がす程に立ち上らんとするか、地に飲み込むか、黄金に輝きに変ずるかは、汝らの意思ひとつ」
「それは、我が国の中に反逆者が現れると……」
「誰なのです、それは !?」
 どよめきが広がり声が上がる。
 塔の頂きで予言を耳にした者は数にして三十余り。十名ほどの高貴なる者と守護兵の動揺を見て、明けの神子は鋭いまなざしを更に細めて見下ろした。
「風と光は名を語らぬ。故に、汝らが見定めよ」
「どのように見つけ出せばいいのです!」
「汝らが見定めよ」
 ぴしゃりと言い切った言葉に、これ以上の予言は下されないと思ったのか、数人の高貴なる者が立ち上がった。残る数人はすがる様に問い続ける。
「神子よ、もし黒き炎が天を焦がしたなら、どうなるのです?」
「――風は嵐となり地は凍り、水は人を飲み込むであろう。……炎は、今この時も高く立ち上がらんとしている」
 明けの神子の冷たい響きに、残った数人も立ち上がった。
 日は昇り、空を血の様に赤く染めていく。その空に向き直った神子はただ一人、遥かな地平線に視線を向けた。
 兵の一人が視線で合図する。
 頷いた若い兵は扉の外に出る兵の動きからそっと外れ、柱の影に身を寄せた。これより食事の時まで誰もこの部屋には入らない。固く閉ざした扉の外には、若い兵に合図を送った者だけが残る……。

 最後の一人が部屋を出た。
 目深にかぶった帽子を床に落とし、鋭い小刀を握る。
 短く切りそろえた黒髪に浅黒い肌の兵は、少年から青年になったばかりの年頃だ。その瞳ばかりが金色に輝く。
 荒くなる呼吸を整え、力をこめる。
 神子は、空を望む露台の先に立ったまま、振り返る様子はない。
 この時を逃したなら、二度と機会は訪れない。

「神子、覚悟!」
 真っ直ぐに駆け行く。ぴくりとも動かない神子の背に、鋭い小刀を突き刺そうとした、その瞬間、ふわり、と黒い髪が右へとたなびいた。
 小刀が宙を突き抜ける。
「なっ !?」
「悪いが、ただ黙って刺される趣味はない」
 耳元で聞こえた声に息を呑んだ若い兵は、声の方に振り向いた瞬間、青い瞳の眼光に居すくまる。だが小刀を握った手に力を込め、胸を狙って振り上げた。
「はぁっ! くっ!」
 神子は次の切っ先も交わし、二度、三度、突きつけられる刃の先を冷たい視線で見つめた。兵が次にどんな動きをするのか見切っているような、悠然とした動き。そして、ついには小刀を握った手首を掴んだ。
「私の手は石のようだよ」
 囁く言葉を耳にして、その思わぬ力に、若い兵は血の気を失う。
 余りにも無謀なこの暗殺は、余りにも大きな力の前で失敗に終わろうとしている。その心の底も見透かしたように、神子は耳元で囁いた。
「せめて、何故殺したいのかぐらい訊いてもいいだろう?」
「仇討ちだ!」
「誰の?」
「村人の!」
 神子が首を傾げる。その間も掴まれた手を離そうともがくが、まるで石の手枷のように、振りほどけない。
「流行り病で村人は死んだ! 予言者なら、防げたはずだ!」
「……流行り病? あぁ……」
 何か心当たりがあったのか、神子は一人納得したような声を漏らして手首を離した。若い兵は荒い呼吸で小刀の先を向けたまま、表情の薄い作り物のような横顔を睨みつける。
「お前……よく殺されなかったな。殺さなかったのか……」
「なん、だと?」
 ふ、と微笑んだ。
 その姿に若い兵は、小刀の先を下ろした。
「どういう意味、だ」
 神子は答えない。
「俺は病を乗り越え、たった一人生き残った。誰もが回復を喜び、生きる場所と剣を与えられた。病は……何かの謀だったというのか?」
 呟いた若い兵は、ついさっき耳にした神子の言葉を思い出した。
「――黒き炎。それは、これから起こる予言ではないのか?」
「私は予言者ではないよ、過去と、今現在起きていることしか知らない」
「予言者では、ない?」
「……そんなこと、言ったこともない」
 興味もないように呟いて、神子は空の彼方に視線を転じた。
「黒き炎はすでにこの地にあり。塔の下と、我が目の前に」
 声の響きは、まるで人の行ないを嘲笑っているようでもあった。
 明けの神子は確かに特別な力を持っているのだろう。だがそれは人の都合のいい未来を見通し、予言を下す神の力ではない。人ですらないと言い伝えられているが、もしかするとそれすらも作られた話なのかもしれない……と、若い兵士は思い至り、小刀を持った手を下ろした。
「お前、名は何と言う?」
「……ノチウ」
「星、か……北の古い言葉だな」
 噛み締めるように呟いて、明けの神子はノチウと名乗った若い兵に振り向き、微笑んだ。
「良い名ではないか。黒き炎で身を焦がすより、天に輝けよ」
 天に、輝け。
 そう言い、優しく笑った人々はいない。
 もう二度と、そんな意味を込めて呼ぶ者もいないだろうと思い、胸に黒き炎を燃やしここまで来たというのに――。
「お前は……」
 握り締めていた小刀を鞘に収め、ノチウは静かに問いかけた。
「お前の名は、なんと言うんだ?」
「名は無い。この塔の頂きで目覚めた時より、明けの神子と呼ばれている。……真、明けを呼ぶ存在かどうかも知らないが」
 自嘲的な笑いに、ノチウは神子を見つめた。
「名は体を現す。私が人ならざるもののように見えるならば、それは名を与えず、人と触れさせなかったためだろう……下らない演出よ」
「シルペケレ」
 明けの神子がノチウの声に、目をしばたかせる。
「シルペケレと呼んでいいか?」
「夜明け……か」
「世の事象を見通す力があるなら、予言はできなくとも光はもたらせるだろう? その光で自ら未来を見定め生きよというなら、俺も、お前も、求めるべきだ。真を……」
「ふふ、面白い奴だな……お前は」
 ノチウを見つめる、シルペケレと名づけられた神子が呟く。
「真か……」
 この塔の頂き訪れる誰とも違う肌と瞳の色。
 朝日に輝く己が手のひらをシルペケレは見つめる。
「この力の源は何であるか、何故この塔の頂きで目を覚ましたのか、知ろうともしなかったな。ただ……恐れられているのだと知っていた。孤独は我が存在が異端故」
「自分の未来を信じなかったのか?」
「私の下に訪れるのは、未来を予言に委ねようとする者ばかりよ。あ奴らと同じように、何もしないうちからあきらめていた」
 声を上げて笑うシルペケレは、予言を下した時より力強い瞳でノチウを見つめ返した。
「気に入った。ノチウ、お前を私の近衛としよう。さすればいずれ、村に病を運んだ真の仇を見つけられよう。……次に私を狙う刺客を通じてな」
「近衛に……できるのか? そんな事が」
「明けの神子の予言となれば理由なんぞ五万とある。お前はまず、剣の腕を上げよ」
 笑うシルペケレを前に、ノチウは再び拳に力を込めた。


                                          end
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