柘榴                     2007.03.10 text by カイ




 満る月が煌々と輝く刻。西の峰へと傾いた光の元を見上げ、ザクロは、ほぅ、と息をついた。
 周囲に人影があれば、同じ吐息は空の月ではなく、この静かな人影に向けられただろう。いや、そこに人の姿を見ることはなく、ただ、高い鼻梁に彫りこまれた静謐な横顔に息を呑んだかも知れない。

 満る月が空に上り始めた頃から、微動だにしなかった影。
 漆黒の細く短い髪は夜露に濡れ、頬に張り付き、ただ赤い瞳だけが冷たい石のように深い森の奥を見据えている。
 黒い、ローブともおもえるゆったりとした衣は他の者が纏えば禍々しいばかりだというのに、ザクロのそれは聖なる夜気に袂を許しているようにしか見えなかった。
 白い腕が伸び、闇に凝ったモノの軌跡をなぞる。
 ソレは解け、溶け、大地に降り、染み渡るような気配を伝えた。
 黒い大地に滲みたモノ。
 それはやがて張り巡らした根が吸い上げ、葉となり花となる。確固な物質として存在しているわけではないが、ザクロは太古より廻るものの気配を感じて、柔らかな口角の端を上げた。

 間もなく夜が明ける。

 夜は更に深さを増し、広がり、湧き上がる。その汚泥にも似た闇の中で、すぅと透明な空に向かい腕を伸ばし、顔を向ける白きもの。
 開く花弁の吐息を耳に、ザクロは静かな声で訊ねた。
「ムージン……ムクゲ、木槿かい?」
「ザクロ」
 足音もなく気配が近づいた。
 ゆっくりと視線を転じれば、月の光を蓄え白く浮かび上がる人影が、少し首を傾げるようにして覗き込んだ。
 大きく丸い瞳に、柔らかく波打つ髪は肩の下で揺れている。紅を引いたかのような鮮やかな唇。細い首。白い薄布の衣は膝までの質素なもので、風もない夜気に揺れていた。
 今夜生まれたばかりの人。いや、精か。
 宮の中庭で目覚め、最初の言葉を授かり、さっそく夜の森に足を踏み出すなど、今日はムクゲは好奇心が旺盛なようだ。
「ザクロ ――― それとも柘榴の方がいい?」
「たいていの人はガーネと言ってるね」
「フヨウはそう言ってなかった」
「アオイもね」
 ムクゲは頭ひとつ高い顔を見上げながら、軽い足取りでくるりとザクロの周りを回った。
 初めて見るものには恐れか好奇を生む。
 この小さな精が恐れを抱かないのは、既に生まれた意味を知っているからだ。
「ザクロの本当の名前は違うのでしょう?」
「名前ににせものなどないよ」
 首をかしげた。
 この森の入り口にある宮に辿り着いた人の中には、与えられた名に不満を持って 「ニセモノ」 と声高々に言う者もいる。
 だけれど新たに与えられた木々の名は、その者の本質を映し役割を伝える。何を意味するかは自分の手で探すより他になく、拒絶は探求への途を遠のかせるだけにしかならない。
「ガーネットもザクロでも呼ぶ人には真実なんだ」
「グラナツムでも?」
「そう、グラナツムでも。同じ意を含むなら呼び名は僕を形作る符号になる。僕が砕け還れば、新しい柘榴が生まれる」
「もう、消える時の話をしないで!」
 強い口調で返され、夜はざわめき揺れた。
 朝に程近い時刻に生まれ、夕刻には命を終える。玉の宮の中庭で死んだように眠り、また次の明け方、真っ白な記憶の中に目覚める。
 ザクロは凛と咲くムクゲの覇気に目を見張ってから、ゆっくりと微笑み返した。
「うん、ごめんね。今生まれたばかりなのに」
「わたしは……きょうの私でしかないから」
「開く一日だけの記憶しか留められないとしても、全て消えて無くなってしまうわけじゃないよ」
 見つめ返す。
 この身体は昨日から今日へ、今日から明日へと続く。
 枝のひとつからも大地に根を張り、やがて無数に華開く。
 それを知り、心に刻み夕の陽を迎えるには、確かに短すぎる時間かも知れない。
「明日も会える?」
「昨日も会っていたよ、昨日のムクゲに」
「明日はわたしの知らない私ね」
「僕も明日の僕を知らない」
 もう一度、今度は反対の方に首をかしげた。
 こんな仕草のひとつに変わらないものがあるというのに。
「わたしと同じ?」
「そう、同じ」

 ゆっくりと容のないモノがムクゲの中に降りて染み渡る。ひろがり、髪の一本、爪の一部となってひとつの姿を創り出す。
 そして新たな想いを生む。

「そっか、同じかぁ……」
 照れくさそうに手を伸ばし、ザクロの細い指先を握ってから、ぱっと離して一歩離れた。そして、ふふふ、と小さく笑ってから駆け出し、やがて夜の森の闇へととけて消えた。



 月は峰の先にかかり、空は透明な藍へと浮かび上がりながら星の光を隠し始めていた。
 夜明けの空を追うように、闇は伸び上がり消えていく。
 風が動き、虫や鳥たちの羽音が始まる。
「まったくの同じではないのだけれどね」
 留め、石となって身の内に詰まる。柘榴の名を冠する限り、果てしない森の記憶までもが凝り続けることだろう。
 柔らかな表皮を破り、輝く石となって弾け出すその時まで。


                                          end
 original novel / HOME

イメージの写真、
蕾のかたちはアガパンサスに似ているのだけれど別の花です。判明できず。orz
ちなみに白い花の石榴もあるらしいですよ。
北海道には(たぶん)自生していないので確かめられませんが。残念。