蓬莱散華                2005.03.09 text by カイ




 春うらら。

 うらうらうらうら、と鼻歌交じりに夕焼け空の街角を行って、馴染みの茶館に足を向けた。

 ダージリン地方にある、ファーストフラッシュの茶葉が入ったと知らせを聞いたのは朝の一番。ちょうど薄く開けた東窓から春の匂いが漂っていた時分だった。
 知らせのメールの文字に心躍らせ、いそいそと向かうは駅のガード下を潜って、西に三分と歩いた二階建て。元倉庫という石造りの建物は、大正時代に造られたものらしい。
 石造り、とは言っても無骨な佇まいはこの地方独特のもので、むしろ北欧の街並みを彷彿させる。この、茶屋のカウンターで季節の紅茶を味わうのが、この季節のささやかな楽しみなのだと。

 なにより、春を彩るものたち。

 重厚なオーク扉の横には、倉と歴史を共にした桃の古木がある。雪解けの後、梅に桜に辛夷や山吹、果ては薔薇や木蓮まで。北の木々は遅い春を取り返そうとでもするかのように、先を競って咲き誇る。
 そんな生きるもの達の伸びやかな枝に手を添えて、よしよし、と声を掛けてから燻し銀のノブに手を掛けた。



 カラン、と鳴る鈴音と共にダークブラウンの扉が開く。直ぐに顔を上げた店のマスターは馴染み顔に目尻を崩した。
「来たね、来たね」
「来ましたよ。待ちに待った春摘み緑茶ですから」
 素朴な木椅子に腰掛けると、穏やかな笑みを零す婦人が棚から飾り気の無い缶を取り出した。
 ミッションヒル。
 ダージリン地方北部の農園の茶葉は春摘みにしては苦味があるといわれているが、そのぐらいの方が好ましい。勿論、普段はえり好みもなく何でも頂いているのだが。言うなれば、春のこの季節の一番茶は、年に一度のお祝いか儀式みたいなもの。
「ミヨちゃんなら後で来ると思うよ」
「お礼を言わないと、朝イチでメールくれたんですよ」
「あら、メール、でお返事していないの?」
 ほんわりと微笑む婦人は、お得意さんお気に入りのカップを温めながら訊ねた。そしてこちらはちょっと苦笑してから、いつもながらの言葉を返す。
「メールが苦手……というわけではないのですが、このことは、会ってから伝えたいかと」
 簡単な用件ならメールで充分事済むが、言の葉は、デジタルよりも色や香りのするほうがいいという時代錯誤なポリシーがある。また店のマスターもそんな得意客のこだわりを尊重してか、毎年の茶葉選びは自ら足を向けるという。
 現地の人の言葉と摘んだ葉の色を視て、選び、心からこれと思った一品が、今、淡い水色と薫り高い茶となって目の前に添えられる。

 そんなひと時を愉しみつつ、ふと、視界の隅に普段のカウンターでは見慣れないものが映った。

 春の花を手にした猫、三匹。
 掌に乗るほどの大きさで、柔らかな質感は紙粘土だろうか。
 一匹は扇子を、一匹は折鶴を、そしてもう一匹はひょうたんとを手にして、陽だまりの猫のように笑っている。
「マスター、この子達?」
「お客様がね、どうぞこちらにと置いて行ったものらしい。なぁ、あの人、何と言ったか……」
「あら、貴方がお話していたんじゃありませんか?」
「お前が受け取っていただろう?」
「いいえ」
 互いにきょとんとした顔を向け合って、ケトルの沸いた音に話が反れた。どうやら会話の筋を察するかぎり、店の主たちの知らぬ間に並んでいたようだ。
「まぁ、愛嬌があるじゃないですか」
 ひょうたんを持ったトラ猫を手に、よく出来ているものだと感心する。他の二匹も紅白の梅のような花を手にして、三匹並ぶと実に華やかだ。
「看板猫ですね」
「さて、あやかろうかな」
 笑いながら薫り高い茶を差し出すマスターに、同じく笑って応える。ふわりと広がる鮮やかさ。さて、それでは今年の一番を頂こうとする横で、今度はメールの着信音が呼び止めた。
 おそらくミヨだ。
「失礼」
 一言断り着信を確認すると、やはり。短い言葉で今日はこちらに来られなくなったとのこと。
「ミヨちゃんかい?」
「ミヨちゃんです。お茶のお礼、メールの方が早そうだ」
「彼女のことだから、明日は顔を見せるだろうに」
 短い言葉で察したマスターが答える。
 確かに、既にこの店に来ていることを見越した文面ならば、急ぐこともなさそうだ。只今、看板猫たちに迎えられて賞味中、とだけ短く答えてから改めてカップを手にする。
 ふと、花の香に顔を上げると、三匹の猫たちが目を細めていた。






 その夜のこと。

 月も鮮やかな深夜の頃に、やけに甘い匂いがして目が覚めた。
 寝ぼけた目で時計を見ると夜明けまでには時間がある。温んだ春の時分とはいえまだまだ夜は冷えるこの季節。窓でも開け放したままだったかと、起き上がった裸足が柔らかなものを踏んだ。

 おや?

 ベッドサイドのライトに手を伸ばすが届かない。
 僅かな月明かりに目を凝らすと、それは何やら、小さなものであることが判った。
「花……?」
 指先に、摘むほどのそれは何の花だろう。手にする先から、はらはらと花弁が舞い落ちる。これほどの花と蕾は、いったいどこから入り込んだというのだろう。
 不思議に思い、さして広くも無い部屋を見渡すと、窓からの風に舞う花弁の中で白く小さなものが動いた。

「はて、扇の片はいずこかな?」
「鶴の片はこなたにありて」
「ささ……酒の香をよしなに」

 ひらひら香る花の中で小さな猫たちが舞っている。
 それはいっそ花見の宴のようでもあり、妖しの精というにはやけに陽気で、不思議を目にした心地のまま一度二度と瞼を擦る。
 夢の続きにしては、やけに楽しげではないか。
 これは、こちらから声をかけて驚かせてはつまらない。
 そう思い、戸口の影に身を隠して覗き見た。小さな猫たちは丹念に花弁を敷き詰めると、其々に満足げな顔で目を細める。

「姫様のお迎えはこちらでよいか」
「ゆうるりと、さて、風を呼びましょうぞ」

 一匹が応えると同時に、さぁあ、と風が駆け抜け薄いカーテンを揺らす。そして息を詰めたまま見つめる前で、音もなく、白い猫が舞い降りた。

 風に舞う花びらか、月の雫に煌めく雪の如く。
 大きく見開かれた銀の瞳が、くるりと夜に染まる部屋を見渡す。
「姫様、こちらでございます」
 ひょうたんを持った一匹が、姫と呼ばれた猫を案内するかのように進み出た。けれど 「姫」 はそちらに足を向けず、つい、とこちらに身体を向ける。
 逃げはせずとも物陰に隠れていた人の元へ真っ直ぐと歩み寄った白猫は、呆然と見下ろす人を見上げ、柔らかな声で 「にぁあ」 と声を上げた。
 うぶ毛のような身体からふわりと漂う香は、桃の花。
 そしてこの、伸びやかな手足の装いを知っている。

「――― ああ、君か。よしよし、今年も綺麗に咲いたね」

 ざんっ! と風が走って花びらが舞い上がる。
 その花の渦に目を閉じて、駆け抜け消えた風に顔を上げるとそこには白猫も従者の姿もなく、ただ床一面に、淡く広がる花びらだけが名残雪のように散らばっていた。






 翌日の午後、まだ日も高い時刻に再び石倉の茶屋を訪ねた。そこで見たものに、思わず足を止める。
 店の扉前にあった桃の古木が一夜にして変容した。
 まだ、街路樹の桜は花芽をつけているというのに、その一本だけが青々とした若葉に覆われている。香る匂いも新緑のもの。
 まるで花びらのすべてをどこかに届けてしまったかのような立ち姿。

 またしても花の不思議を見た思いで店の扉を開けると、マスターが顔を向けた。カウンターには悪戯好きの猫のような瞳のミヨ。その隣に腰掛ける前に、待ってましたとマスターは声を掛けてきた。
「猫がいなくなったんだよ」
「猫?」
「ほら、昨日ここに並んでいた紙粘土細工の猫。店を閉める頃は確かにあったのに、朝来てみたら居なかったんだよ」
「へぇ……不思議もあるものですね」
 そう答えた横で、ミヨが肩に手を伸ばしてきた。
 ふふふ、と微笑みながら指先で摘んだのは桃の花。そのまま柔らかな花弁に鼻先を近づけて覗き込む。どうやらこちらの不思議も見通されていたようで。


 さて、彼女には何から話そうか。


                                          end
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